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放送禁止用語

放送禁止用語の説明

放送禁止用語(ほうそうきんしようご)は、テレビやラジオといったマスメディアにおいて、何らかの理由によりその放送における使用が禁止されている言葉のこと。今日の日本には放送禁止用語は正しくは存在せず自主規制のみである。

概説

国により差異はあるが、各国の電波法に定めるものの他、言論・表現の自由が認められている国であれば、おおむね「公序良俗」に反する、すなわち、差別的あるいは侮蔑的、卑猥、犯罪を肯定しこれを模倣・助長させる意味などをもつ言葉などで、放送の中立性・健全性を阻害する、もしくはその恐れのあるものについて、「放送に用いるのに不適切な言葉」として規制の対象とし、放送に用いない、あるいは放送に用いることに一定の制限を設けるものとしている。しかし、その「判断」と「規制」を行う主体はまちまちで、それぞれの国の歴史的経緯などが反映され、国家として法令に「放送禁止用語」を定めている国もあれば、まったく自主的なものとしている国もある。なお、国家により、言論、表現の自由が認められていない、あるいは制限を課されている国においては公権力による明確な放送禁止用語が存在する。太平洋戦争前・戦争中の日本もそうであった。

戦後、日本では、戦前・戦中の放送の国家統制の結果の反省の上に立ち、放送の社会的責任、使命を自覚してそれを遂行することは放送に対する国民の信頼を保持し、公権力の介入を排除して放送事業者の表現の自由を確保し、放送の自主性を貫くためにきわめて重要なことであるとされ、放送事業者は放送法の定めるところに従い、それぞれ、放送番組の憲法ともいうべき、番組基準(放送基準)(俗にこれを放送コードと呼ぶ)を定め、各放送事業者の自己責任においてこれを運用する[1]。 この番組基準の下に、「放送に用いるのに不適切な言葉」は取り扱われる。すなわちその判断は、放送局が自ら行い、自ら規制し、中立で健全な放送を維持するものであり、したがって、日本の放送において、放送禁止用語というものは存在せず、あくまでも番組基準の「解釈」の中に存在するものである。つまり、第三者によって「禁止」されるものではなく、放送局及び制作担当者の現場判断で放送に用いるか、あるいは「自粛」するかを決めるもの、すなわち自主規制するものであることから、「放送自粛用語」、さらに、放送コードに引っかかる(抵触する)言葉などともいう。従来、日本放送協会(NHK)では禁止という言葉を避け「放送問題用語[2]」としていたが、後述の理由により、概ね2008年以降、正式には廃止されたものとなっている。

日本の場合には「自主規制」であることから、第三者により規定された「放送禁止用語リスト」というものはなく、テレビ・ラジオ業界ともに、それぞれの番組基準の解釈と、世論動向や番組の種類(教養、娯楽などの分類)、時間帯による視聴者、聴取者層の変化などの要素を加えて判断していることが多い。このため、例えば、放送するのに注意を要する言葉、あるいは表現を含んだものについては、時間帯・番組ジャンルなどによって視聴者、聴取者の年齢層などが異なることを考慮し、いわゆるゴールデンタイムでは駄目でも深夜帯では許されるものなどがある[3]。 なお、言葉に限らず、「表現」、すなわち、ひとつひとつの言葉は不適切なものではないが、これを組み合わせた「内容」が不適切なものとなるようなコメント、歌や映像なども規制の対象となる。過去、日本には「要注意歌謡曲」なるものが存在したが、今日では廃止されている[4]。 その他、番組の内容上、必要のない個人や団体の情報を含むもの、意匠、商標などが各国の法の範囲にしたがって規制の対象となる。

民間放送局(民放)民放の広告放送(CM=コマーシャルメッセージ)については具体的な根拠法がいくつもあることから、表現を含めたより多くの具体的な規制があり、おおむね各国で「事前考査」を経て放送される。金融関係、煙草、医薬品、医薬部外品、いわゆる健康食品などがその代表例である[5]。 なお、ドイツではナチズムのプロパガンダ及びこれに類する行為が、ドイツ国内の刑法により禁じられていることから、処罰の対象となる正式な「放送禁止用語」や「放送禁止表現」が存在する。

抱える問題

そもそも、人の思想・思考による言論、表現とはある特定の目標、目的を持っているものであり、厳密な中立性などを保つことは困難、ゆえに、思想・思考、言論、表現の自由は保障されなければならないのである。しかしながら、「社会」を持つ人は、ゆえに、時として利害関係を生じることになる。ここには「自由」と「責任」の関係が成立する。特に、大衆を対象とする放送で、安易に全てをありのまま自由に表現することは、言論、表現の自由が保障されていれば、なおさら、容易に、当事者間、第三者間での利害関係を生みやすく、好ましくないというのは国際的にほぼ共通した認識である。このことから、「放送の責任」としての言論、表現の規制が各国で行われる。

ところが、この「放送の責任」について、例えば、日本と欧米を中心とした諸外国とでは大きな違いがある。すなわち、日本では今日に至るも、不適切な言葉や表現の放送について放送局の直接責任が問われる傾向があるのに対し、欧米を中心とした諸外国では「発言者の自由と責任」についての大衆の意識が高く、今日、不適切な言葉や表現を用いる発言者に直接責任を問う風潮が定着してきており、放送局に対しては、不適切な発言や表現をする者や、不適切な言葉や表現を含む番組素材を必要もなく安易に放送に使うことについての責任を問われる傾向にある。このため、欧米を中心とした諸外国では、内容を第一とすることが放送局の責任であるとされることから、放送局自らが多くの言葉について細かく規制することはなくなっているのに対し、日本では、建前上は内容第一であるが、第二次世界大戦後、放送の開始より半世紀を過ぎてもなお、言葉や表現の規制は放送局の責任範囲にあるものとされることから、多くの言葉や表現に細かく規制を加え、ついにはその言葉や表現の存在自体をないものにするという方向に定まりつつある[6]。 これは日米の報道判例にもよく表れており、日本では1965年の「博多駅テレビフィルム提出命令事件」において「利益衡量」基準(表現を認めた場合と規制した場合とのそれぞれの社会的利益を比較衡量して判断するもの)が用いられ、以降も同じ手法をとっているのに対し、米国では理論化された「明白かつ現在の危険」基準(表現行為が重大な害悪を発生させ、明白かつ現在の危険をもたらさない限り表現の規制を認めないとするもの)がしばしば用いられている。つまり、米国などと異なり、日本の放送では、その放送内容が他の人権などと衝突して法廷闘争に至ると、勝訴の見込みはまずないことから、日本の放送において放送禁止用語というものは存在しないのにもかかわらず存在するという矛盾した実態となっている。事実、上述の博多駅テレビフィルム提出命令事件以降の日本の法廷闘争で、放送局が提訴され勝訴した例はない[7]。また逆に、政見放送削除事件ではNHKが勝訴する結果となっている。

基本的に、表現行為の責任は表現者に帰属する。したがって、表現者自身が自らの表現行為が他の人権などを侵害するかどうかの斟酌を行うことによってなされるのが表現の規制である。すなわち、表現の規制はマスメディアに限らず、表現の自由が保証された民主主義社会においては個人対個人のレベルより日常的に広く行われている。しかし、一方で、具体的に表現のあるべき姿については多くの考え方が存在し、一義的に示すことは、到底、不可能である。

このことから、表現の自由の範囲にあるものと「放送局が判断して」放送したものでも、結果として問題になることがある。日本での近年例では、弁護士の橋下徹(現大阪府知事)が読売テレビ『たかじんのそこまで言って委員会』で刑事被告人の弁護人に対する懲戒請求を視聴者に呼びかけたことから、弁護人に対して懲戒請求が殺到、橋下はこの弁護人より業務妨害として提訴され、一審で原告勝訴となる事態に至っている。この問題で大阪弁護士会は橋下に対し「品位を害する行為」に該当するとし、業務停止2カ月の懲戒処分を課した。しかしその後、最高裁判所において原告敗訴、放送局の判断の正当性が確定した。

一方で過去には、逆に、アナウンサーが余った放送時間を使ってアドリブで話した内容が表現の自由の範囲を逸脱しており、自主規制すべき内容であったとされて会社から懲戒処分を受けたことから提訴、原告勝訴となった例もある。

なお、商業メディアでは差別糾弾を回避する手段の一つとして、差別用語の言いかえが行われており、主に米国で行われているそれをポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)と呼ぶ。日本では、差別用語の一部もしくは全部の言いかえに反対する立場から、この差別用語の言いかえを「言葉狩り」として批判する向きもある[10]。また、差別に反対する側からも「単なる言いかえでは現実を覆い隠すのみだ」とする批判もある。同様の批判は英語圏でもポリティカル・コレクトネスに対して行われている。

すなわち、差別用語の言いかえは、内容を伴わない表面的なもの、すなわち単なる言いかえで意味するところは同じとなることが多く、言いかえた言葉が時を経て、また差別用語になることが多い。

放送禁止用語として扱われる言葉

具体的に対象となる言葉や表現については正確に把握されてはいない。このことから、NHK、日本民間放送連盟(民放連)放送基準の「解釈」が根拠となる。方言も対象となることがあるため、各放送局でそれぞれに、問題となった際に個別検討している例が多い。具体的には対象となる言葉や表現をいちいちリストアップするのではなく、「放送基準の精神」の解釈が大切、すなわち、個人がそれまでに身に付けた「良識」に、放送基準の精神を加えたものが「放送基準マインド」であるとされ、「放送に携わる者それぞれの持つ自主基準」によって運用される[11]。ただし一部を除き、個人情報が露見しかねないものと人権を侵害する恐れがある発言は、その多くが対象になることが多い。

なお、各民放の放送基準はおおむね民放連放送基準に準拠したものであるため[12]、日本にはおおむね2つの放送基準があることになるが、基本となる部分に大差はないため、用語については、NHK、民放ともにほぼ同じ解釈、取り扱いとなる。しかし、NHKはいわゆる「公共放送」、民放は「商業放送」であることから、取り扱う内容について差があり、結果としてNHKの方が「より厳しい」というものになる傾向がある。

実施上、曖昧な「公序良俗」などの概念によるのは困難であることから、おおむね、各言葉の規制の根拠を成すものは放送基準にある「法と政治」、すなわち、「法令を尊重し、その執行を妨げる言動を是認するような取り扱いはしない」、「国の機関が審理している問題については慎重に取り扱い、係争中の問題はその審理を妨げないように注意する」、「人種、民族、国民に関することを取り扱うときは、その感情を尊重しなければならない」であり、結果、それぞれ対象となる言葉は、各法令、頻発する事件や国内外の複数の司法判断などを根拠としたものになる。

その他、主にNHKでは専門的で難解とされる用字や用語の言いかえもなされる。

日本では、詳細な放送禁止用語の設定とその取り扱いについては、各放送局ともに現在でも「関係者限り」としている。(数少ない例として、司法により認められ、公にされた言葉に「めかんち」「ちんば」がある[16]。)これは、根本的に、放送における表現の規制は各放送局の自主的な判断=主観的判断により行われるものであり、各放送局の自由な思想の範囲、究極には上述のように「放送従事者の良識の範囲」であることから[17]、「偏った根拠」によるものであるのが普通であり、放送禁止用語を公表することは、自然、自らの掲げる「中立性」と矛盾することになるという判断がなされるためである。しかし、この大元となる判断基準についても何ら「客観的な正しさ」はなく、「言葉狩り」を招く結果ともなった。

NHKはこれらの問題に対するひとつの答えとして、約半世紀にわたるNHK独自の言語研究の結果をまとめ、2008年その新放送ガイドラインに、「放送の用字・用語・発音は、『NHK新用字用語辞典』、『NHKことばのハンドブック』および『NHK日本語発音アクセント辞典』に準拠する」と明記、すなわち、「NHKの考える放送可能用語」について公開[18]、大衆の判断を仰ぎ、適宜、加除するものとした[15]。民放各社もおおむねこれに追従しており[6]、したがって、『NHK新用字用語辞典』、『NHKことばのハンドブック』にない言葉や用法などが実質的な放送禁止用語となったことから、長年、各局に存在した、用語対制限理由を示したいわゆる「放送問題用語リスト」は過去のものとなっている。

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